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寺宝釈迦涅槃図

  1. 月蔵寺年表及び歴代年譜
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縁起と諸堂

北辰妙見大菩薩

北辰妙見大菩薩は北極星・北斗七星を神格化したもので、北極星は古代中国で天帝の化現した姿と信じられ、後に道教や佛教と習合して菩薩と尊称されるようになった。北斗信仰は四~五世紀に日本に伝来し、七世紀頃には帰化人が関東地方に移住し、その地にあった八幡信仰と混交して武家の守護神となった。中でも桓武平氏の嫡流で鎌倉幕府草創期に房総半島で勢力を張った千葉氏一族(現在の千葉県の名の起源)の妙見信仰は有名で、長保二年(1000)に北斗山金剛授寺を開創したが、明治の神佛分離令で妙見本宮千葉神社となった。また日蓮聖人が比叡山遊学を終えて清澄に戻る途中で伊勢神宮に赴き、外宮の祭式を司る度会氏の氏寺であった天台宗浄明寺に参籠した時に妙見菩薩が示現し、法華経行者守護の誓いを立てたとも伝わり、この妙見菩薩像は度会氏系と呼ばれ童子形であるが、千葉系及び伊勢系の妙見像は岩上の青亀の上に立ち両手で剣を地に立てた姿をしている。
 一方で、清和源氏の嫡流である能勢頼次を開基とする能勢真如寺の妙見信仰は、関が原の合戦で戦功をあげた頼次が身延山二十一世寂照院日乾に帰依して広大な山屋敷を寄進したことで、身延を退穏した日乾が能勢に下向して四年を過ごし、能勢氏の守護神であった鎮宅霊符神を妙見菩薩として武運長久を願って武具甲冑を身につけ剣を手にした妙見像を刻して能勢を一望する山頂に祀ったことが始まりである。
 妙見堂にはこの能勢系の二体の妙見菩薩像が奉安されているが、一体は安永五年(1776)に廣岡登茂衛が身延山で感得した妙見菩薩で堂内右手の厨子に祀られている。当時の月蔵寺は諸堂の老朽化が激しく、寺の再興を願って妙見菩薩が奉安されたと考えられる。
 日蓮聖人の在世には千葉家の家臣から富木常忍や太田乗明が有力な信者となり、その邸域を法華寺・本妙寺としたが、江戸時代には合併して正中山法華経寺となった。月蔵寺に現存する弘化三年(1846)十月十八日に記述された『妙見大士縁起』によれば、月蔵寺第二十九世瑞鳳院日輝が法華経寺第百二世本孝院日遵に師事した頃の法華経寺は、開創以来六百年を経て諸堂の老朽が激しく、日遵が再建を発願して弘化二年(1845)に庫裏が上棟された。
 その折に日輝は佛師に命じて旧院の大柱から能勢の御尊像を模して妙見大士を彫り出し、法華経寺で壱百日参籠して読経を捧げ月蔵寺に奉安した。その像の大きさは高さ一尺一寸八分で、九寸を以て九曜に擬し、二寸八分を以て二十八宿に擬したと記されている。この妙見菩薩像が鎮座する正面の御厨子は、江戸後期の民衆に若女役として有名であった歌舞伎役者「難波の太夫」二代目中村富十郎(1876~1855)が、嘉永五年(1852)七月に「家内安全・商売繁栄・諸人愛敬・門葉永続」を願って奉納したものである。