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寺宝釈迦涅槃図

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豊臣方武将大野道犬斎治胤の慰霊塔

 宇賀徳社と供養塔の間にひと際目を引く南無阿弥陀佛の名号が彫られた大きな五輪塔がある。豊臣秀吉側近の重臣で大野三兄弟(治長・治房・治胤)と称された内の三男、大野道犬斎治胤の墓である。 父は大野佐渡守道犬で、内裏の修理造営職を掌り官位は太夫に次ぐ亮であった為に大野修理亮道犬と呼ばれた。母は浅井長政の三姉妹の一人で、秀吉の側室である浅井茶々(淀君・淀殿)の乳母を勤めた大蔵卿局である。尚、三男の治胤は父道犬の名を採って大野道犬斎治胤と称した為に、一部の歴史文学書の間で父子を混同しているものがある。
豊臣方武将大野道犬斎治胤の慰霊塔 慶長の頃は徳川家が政治の実権を掌握していたが、一方で秀吉が遺した莫大な財力を有し堅固な大阪城に居を構える豊臣家は脅威であった。秀吉がかつて建立し秀頼が再建した方広寺の梵鐘の銘文を契機にして、徳川と豊臣の争いは激しくなり、この頃から豊臣家を守るために徳川との決戦を主張する大野三兄弟の名前が正史に現れてくる。長男の大野主馬治長は秀吉没後に淀君や秀頼の側近として仕え、秀頼の父であったという俗説もある。治房は船場に砦を築造し、治胤は豊臣家の水軍を率いて船庫を守備する等の活躍をしたが、豊臣勢は慶長十九年十一月(1614)の大阪冬の陣で大敗し、大阪城の濠も埋め立てられた。その後一端和議するものの、慶長二十年(1615)四月、大和郡山や紀州での戦いを緒戦に、堺まで巻き込んだ大阪夏の陣が起こった。当時堺は財力があり両軍にとって武器調達に有利であった為に、四月二十八日に徳川勢の兵站基地にさせまいとする治胤の軍勢に焼討ちにされ寺社民家二万戸が灰燼に帰したという。
 戦いは徳川が有利で軍勢は八尾から天王寺に攻め入り、遂に五月八日大阪城が落城した。治長は大蔵卿局と淀君・秀頼らと共に城内で自刃し、治胤は五月二十日京都で捕縛された後、六月二十七日に堺の町衆に引き渡され、並松の刑場で火刑に処せられた。堺を焼け野原にした首謀者として堺の町衆の恨みをその一身に受けた治胤であったが、主君秀吉公の遺志を継いで豊臣家への忠誠を貫いた武将を憐れみ、後日処刑跡に写真の供養塔が堺の人々の手によって建てられ、後に月蔵寺に移転改葬された。
 夏の陣後三十数年を経た慶安二年(1649)になっても幕府は寺社町衆から『大野主馬諸親類改帳』を提出させる等、豊臣方残党の捜索は久しく続けられたが、治房については諸説があり、自害したとも豊臣家再興の為に生き延びたとも伝わっている。当寺では怨親平等の立場から大野治胤の供養を続けてきたが、近年になって大野治房後裔の方から連絡があり、大野道犬治胤の五輪供養塔を現在も護持供養していることを喜ばれて、烏月画伯の掛け軸を月蔵寺に寄贈して戴いた。
大野道犬慰霊塔 大阪城天守閣にある「大坂夏の陣図屏風」には、勝者徳川方の雑兵が大阪城下を略奪し民衆を殺戮する場面が描かれているが、天下取りを目指した両軍の大義の影で犠牲となった人々の数は計り知れない。