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元和の町割りと風間六右衛門

元和の町割りと風間六右衛門 徳川幕府は天下の平定を宣言する為に元号を慶長から元和に改元し「元和偃武(げんなえんぶ)」と呼ばれた。中国の古典『書経』にある「偃武修文」からの引用で、「武器を偃せ(ふせ)、文を修む」つまり武器を収めて戦いを止め、文徳を修める意味であるが、応仁の乱以後百五十年余り続いた戦国の世が終わり、太平の始まりを意味している。
 冬の陣の後、幕府は長崎で外国交易に老練であった長谷川藤広に、慶長十九年十二月より貿易港として発展させる為に堺奉行を兼務させた。半年後の元和元年(1615)六月、夏の陣で灰燼と化した堺の街の復興を藤広に命じ、その家臣である風間六右衛門を地割奉行に任命した。風間奉行の構想は秀吉によって一度埋められた土居川の濠を再び開削して市街の規模を広げ、南北の大道筋と東西の大小路筋を基軸として碁盤の目の形に町割りし、次に東側の濠に沿って農人町を作り、散在していた寺院をその内側に集結させて寺町の街区を作り、同業の商人を紀州街道沿いに集めることであった。これにより、堺を長崎に匹敵する貿易港にするという藤広の夢を実現させる為でもあった。現在も旅籠町・鉄砲町・材木町・櫛屋町等の町名が残っているが、この町割りは「元和の町割り」と呼ばれている。
元和の町割りと風間六右衛門 長谷川藤広は着任以来病床にあり、元和三年(1619)十月二十六日に没した為に町割りは風間六右衛門の独断で進められたが、風間奉行はその昔越後・信濃両国を治めて日蓮聖人の弟子日昭上人を外護した篤信者、風間信昭の後裔であった所為か、法華寺院の敷地を他宗に優先して広く配置した。特に千利休ゆかりの南宗寺はもと宿院町にあった寺域から新たに拡張された堺の南端に振り当てられた為に、当然南宗寺を始め他宗僧俗からの非難が激しく起こり、江戸の寺社奉行は元和四年(1615)八月十四日に風間奉行に急使を送り、八月十五日に出頭するように命じてきた。到底不可能な江戸到着命令を熟慮した風間奉行は江戸に向かう途中、並松の刑場辺りに至った時に籠の中で自刃してこれに応じた。享年四十七歳、堺を再建する町割りに際しては町の殷賑を願うのみで他意のなかったことを自らの命を以て上奏したと考えられるが、町割り自体には些かの修正を加えられることもなく、寛永の頃には風間奉行の描いた通りに実現された。その後約七十年を経て復興がなされた頃、元禄二年(1689)の『元禄堺絵図』を見れば、整然と整備された街並みと、他宗寺院に比して法華寺院の敷地が広大であったことや、柳寺町辺りの道路がこの地図に示された状態で現在も往時の佇まいを残していることがよく分かる。
 風間奉行の遺骸は、自刃の場所に法華信者によって丁重に葬られ、法号を「不惜身命院殿道喜日妙大居士」と号した。後年小さなお堂が建てられ、風間堂と呼ばれたが、遺徳を偲ぶ法華僧俗の供える香の煙が絶えなかったと伝えられている。お堂跡は現在「日蓮宗並松山風間寺」として堺史跡になっている。
元和の町割りと風間六右衛門 現在風間奉行の墓は月蔵寺の墓地内にあるが、明治初頭の並松の刑場を廃止した際に、大野道犬治胤の墓や題目塔と共に堺の北端に位置する月蔵寺へ移転されたと考えられる。月蔵寺過去帳の記録によれば「文化元年(1804)第二十三世全々院日正の代に淨眼町中村利兵衛が父母菩提の為に堺北之庄風間六右衛門石塔の田畑一反四畝五分を買い入れて月蔵寺に納めた」とあり、この時に墓を月蔵寺に移転したことも考えられるが『堺市史』には「享和元年版(1801)難波丸綱目に北の端松林中にもその墓がある」と記されており、やはり明治初年の頃に移転されたものであろう。尚、この土地は第二十四世広泉院日明の代に檀家一統と相談の上、月蔵寺の諸堂修復の為に文化四年(1807)に売却したことも過去帳に記されている。
 月蔵寺にある墓の正面には、戒名「不惜身命院殿道喜日妙大居士」と命日の「元和四年八月十五日」が克明に残っているが、右側面の俗名は「風間六右衛門」の文字が辛うじて判読できる状態である。この時代の墓石は和泉砂岩が多く、年数を経ると表層部分が剥離する為に、現在は樹脂を注入して剥落を防いでいる。
 元和の町割から約九十年後の宝永元年(1704)に、幕府は度重なる洪水を起こしていた大和川を付け替える開削工事を始めた。しかし堺の北部で大阪湾に流入する新大和川が運ぶ土砂は、その後百五十年ほどで堺の港を埋め、貿易港としての役目を果たせなくなった。さらに太平の世が続いて鉄砲・火薬・刀剣等の需要も減り、鎖国の影響もあって、堺は長谷川藤広や風間六右衛門が描いた夢とは違う道を歩むことになった。
 堺は三度大火に遭っている。応永の乱(1399)と大阪夏の陣(1616)、そして第二次大戦(1945)である。およそ三百年毎に壊滅的な被害を受け、その度に復興を果たしてきた堺ではあるが、風間六右衛門が身命を捧げて法華寺院に遺した広大な寺域も、明治時代に学校設立の用地で接収されたり、終戦後の復興で墓地を鉢ヶ峰に移転され、道路拡張で寺域を削られたり、また寺院修築の為に境内地や飛地を売却したりで昔年の面影を留める寺が減ってしまった。堺は、昭和二十年(1945)七月十日の空襲で焼け野原となり、罹災した寺院もその堂宇の大半を焼失したが、幸い月蔵寺の境内や本堂に落ちた焼夷弾は不発に終わり、被害も墓地の塀が燃えただけで、近隣からの類焼も免れた。私には風間奉行と大野治胤がこの寺を守り、江戸時代の姿を後年に遺してくれたような気がしてならない。