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寺宝釈迦涅槃図

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寺宝釈迦涅槃図

釈迦涅槃図 釈尊の涅槃入滅に関する歴史的事実を伝えているとして資料的価値が高いとされる『大般涅槃経』によれば、釈迦牟尼世尊は三十五歳で成道し、悟りを得てからインド各地を巡って四十五年間の教化活動を行ったが、晩年には末羅国(マツラコク)の拘尸那竭羅(クシナガラ)の近く、跋提河(バッダイガ)の岸辺にある八本の沙羅双樹の中に病身を横たえて最後の説法をした後、八十年の生涯を閉じて入滅したとされる。またその場には、釈尊入滅の報を聞いた多くの菩薩や弟子達、国王や大臣、末羅国の力士、夜叉や羅刹等の五十二衆が参集し、また多くの動物も集まって共に悲しんだと伝えられている。この釈尊入滅の情景を描画したものが『釈迦涅槃図』で、奈良時代から釈尊の命日である二月十五日に行われていた涅槃会は、平安時代に入って涅槃図が製作されるに伴い、その涅槃図を本尊として各寺院で行われるようになった。
 涅槃図には新旧二種の形式がある。一つは応徳三年(1086)の銘がある国宝の「金剛峰寺本」を初めとする主として平安時代に製作されたもので、釈尊は画面中央に両腕を体の側面に添えた姿で大きく描かれ、真っ直ぐ伸ばされた両足の足元から見ている状態なので宝床(寝台)は右側を見せている。また会衆や動物の数は少なく、長方形横長の画面が多い。今一つは鎌倉時代に始まった形式で、釈尊は幾分小さく、右腕を枕にして両足を重ねた状態で描かれ、宝床は左側を見せ、描かれた会衆や動物の数は多くなり、大般涅槃経の描写に沿って描かれている。尚、この二形式は徐々に変遷したもので、両形式の特徴を併せ持つものもあり、製作された時代の世情や、著名な画家の製作意図によって多様に表現されている。更に、江戸期に入ると村落が涅槃講を勤める等、庶民層にまで涅槃図が普及し、奈良地域では竹坊を始め多くの絵師が輩出した。絵師達は有名な作品を手本にしてその腕を競い、涅槃図を世に送り出して庶民層に涅槃講が広まる要因となった。
 長谷川等伯が慶長四年(1599)、息子久三の七回忌に描いた重要文化財である京都本法寺の涅槃図は、縦791㎝×横402㎝という巨大な法量を持ち、日本三大涅槃図として京都の東福寺本や大徳寺本と共に有名である。
 元禄九年(1696)五月に奉納された月蔵寺寺宝の『釈迦涅槃図』は、その総寸法が縦320㎝×横190㎝(本紙寸法は縦192.5㎝×横149㎝)あって、掛ければ本堂の天井から床まで届く大きさである。この涅槃図の施主は、前述した法華の篤信者である谷口法悦で「一天四海皆帰妙法」の祖願が裏面中央に書き込まれ、併せて父母の追善と法界万霊の供養を志したものである。
涅槃図上部中央 涅槃図上部中央にはお題目が金泥で書き入れられ、その右に二月十五日の満月が輝き、その下に釈尊入滅の報を聞き、阿那律尊者に先導されて天上より下向してくる摩耶夫人(釈迦の母親)が右手上部に描かれている。
涅槃図左部分 中央部にある八本の沙羅双樹の内、右側四本は最後の説法が終わると忽ちに枯れ、残りの四本は青々と茂ったと云われるが、これは「四枯四栄」と呼ばれており、釈尊の色身(肉体)が滅びても、説かれた佛法は後世にまで残り栄えるという意味である。
 左側の沙羅双樹には釈尊の衣持ち物である錦の衣鉢袋と錫杖が掛けられている。しかしこの袋は摩耶夫人が釈尊を救う為に投げた薬袋であるという俗説が江戸時代に広まり、これが発展して後述する「涅槃図にまつわる猫の話」として今も伝わっている。
 登場人物の名が書き入れられた涅槃図を除いて、描かれた会衆の名を特定するのは難しいが、描かれている場所・冠・服装、その他の特徴から判断できるものを説明してみれば、中央に掛かる雲の下には三つの赤い顔を持つ阿修羅が、また釈尊の頭上に観世音菩薩が描かれ、宝床の下には涅槃経を受持する役目を担った迦葉童子も描かれている。

釈迦涅槃図 釈迦涅槃図 釈迦涅槃図